というわけで、本日はYS-11についてご紹介したいと思います。
なにがというわけでなのかは昨日の記事をお読みいただければ・・・
そもそもこの機体を名機と呼ぶかどうかは、意見の分かれるところです。
操縦性、経済性、整備効率、居住性などについては、けっして客観的に優れた航空機であるとは言えません。
YS-11は本当に名機なのでしょうか。
第二次世界大戦終了後、敗戦国の日本はGHQの指示の下、すべての航空機を廃棄し、航空会社やメーカーも解体され、文字通り翼がもがれた状態でした。
多くの航空機は戦後に廃棄され、それと同時に様々な航空機の図面や記録なども接収されるか焼却処分され、飛行機に関する一切は日本人の手に無い状態でした。
再び日本人に翼が戻ってきたのは1952年のサンフランシスコ講和条約。
これにより、まずは民間航空会社の設立が許され、日本航空や全日空の前身の日本ヘリコプター輸送(全日空のコードがNHなのはこれに由来します)などの航空会社が相次いで発足します。
これらの航空会社は当然ダグラスDC-3などの海外製の航空機を輸入し、運用していましたが、国産の航空機を再び飛ばしたいという夢が関係者の間で募っていきました。
1950年の朝鮮戦争などをきっかけに、部品の製造や航空機のライセンス生産などで工業力を取り戻しつつあった日本の航空業界ですが、国産民間機の製造に向けて夢を現実に変えていったのは1957年に設立された「財団法人 輸送機設計研究協会 (通称 輸研)」でした。
この「輸研」こそが、5人のサムライを筆頭に多数の企業が結集して戦後初の民間航空機を産み出した、夢のプロジェクトだったのです。
ちなみに5人のサムライとは、桜花基本設計者の木村秀政、隼の太田稔、紫電改の菊原静男、飛燕の土井武夫、そして零戦の堀越二郎の5人を指します。
航続距離1000マイル、座席数60以上、低翼、双発ターボプロップ、1200m滑走路で離着陸可能、開発期間4年といった要件が提起され、開発を開始した輸研は、1958年12月11日にモックアップを公開しました。
機体名称は輸送機、設計の頭文字からYSと名付けられます。
モックアップ公開の首尾は上々で、本格的な開発・生産に向けて1959年に日本航空機製造が発足し、5人のサムライは第一線を退いたのち、YS-11は1962年8月30日、愛知県小牧飛行場で試作1号機の初飛行を迎えます。
その後、三舵問題などの問題を抱えながらも開発は進行し、1965年から民間航空会社に納入が開始され、生産された182機は民間航空会社だけでなく官庁(自衛隊)や海外へも納入され、世界の空で活躍しましたが、2006年に民間路線での運用は全て終了します。
アナログな計器、操縦桿に直接ワイヤーがつながれ、ひたすら重い操舵、居住性が悪くオートパイロットも無いコックピット、揚力が大きすぎるため降下しづらいがパワー不足のため上昇もしずらいなど、その生産機数からみても超優秀で大ヒットした航空機とは言い難いのかもしれません。
しかしそこには、敗戦から立ち上がる魂と、よみがえった技術立国としての誇り、そして未来を支える子供たちの夢が溢れていたにちがいありません。
私も過去に、JACの伊丹~出雲という路線でYS-11に乗ったことがありますが、まさにパイロットの手の感触が操縦に伝わっているような、不思議な感覚を覚えたものでした。
先人の偉業とそれを引き継ぐ現代の人たちの努力に思いを馳せるとき、YS-11はやはり名機だと思うのです。
なにがというわけでなのかは昨日の記事をお読みいただければ・・・
そもそもこの機体を名機と呼ぶかどうかは、意見の分かれるところです。
操縦性、経済性、整備効率、居住性などについては、けっして客観的に優れた航空機であるとは言えません。
YS-11は本当に名機なのでしょうか。
第二次世界大戦終了後、敗戦国の日本はGHQの指示の下、すべての航空機を廃棄し、航空会社やメーカーも解体され、文字通り翼がもがれた状態でした。
多くの航空機は戦後に廃棄され、それと同時に様々な航空機の図面や記録なども接収されるか焼却処分され、飛行機に関する一切は日本人の手に無い状態でした。
再び日本人に翼が戻ってきたのは1952年のサンフランシスコ講和条約。
これにより、まずは民間航空会社の設立が許され、日本航空や全日空の前身の日本ヘリコプター輸送(全日空のコードがNHなのはこれに由来します)などの航空会社が相次いで発足します。
これらの航空会社は当然ダグラスDC-3などの海外製の航空機を輸入し、運用していましたが、国産の航空機を再び飛ばしたいという夢が関係者の間で募っていきました。
1950年の朝鮮戦争などをきっかけに、部品の製造や航空機のライセンス生産などで工業力を取り戻しつつあった日本の航空業界ですが、国産民間機の製造に向けて夢を現実に変えていったのは1957年に設立された「財団法人 輸送機設計研究協会 (通称 輸研)」でした。
この「輸研」こそが、5人のサムライを筆頭に多数の企業が結集して戦後初の民間航空機を産み出した、夢のプロジェクトだったのです。
ちなみに5人のサムライとは、桜花基本設計者の木村秀政、隼の太田稔、紫電改の菊原静男、飛燕の土井武夫、そして零戦の堀越二郎の5人を指します。
航続距離1000マイル、座席数60以上、低翼、双発ターボプロップ、1200m滑走路で離着陸可能、開発期間4年といった要件が提起され、開発を開始した輸研は、1958年12月11日にモックアップを公開しました。
機体名称は輸送機、設計の頭文字からYSと名付けられます。
モックアップ公開の首尾は上々で、本格的な開発・生産に向けて1959年に日本航空機製造が発足し、5人のサムライは第一線を退いたのち、YS-11は1962年8月30日、愛知県小牧飛行場で試作1号機の初飛行を迎えます。
その後、三舵問題などの問題を抱えながらも開発は進行し、1965年から民間航空会社に納入が開始され、生産された182機は民間航空会社だけでなく官庁(自衛隊)や海外へも納入され、世界の空で活躍しましたが、2006年に民間路線での運用は全て終了します。
アナログな計器、操縦桿に直接ワイヤーがつながれ、ひたすら重い操舵、居住性が悪くオートパイロットも無いコックピット、揚力が大きすぎるため降下しづらいがパワー不足のため上昇もしずらいなど、その生産機数からみても超優秀で大ヒットした航空機とは言い難いのかもしれません。
しかしそこには、敗戦から立ち上がる魂と、よみがえった技術立国としての誇り、そして未来を支える子供たちの夢が溢れていたにちがいありません。
私も過去に、JACの伊丹~出雲という路線でYS-11に乗ったことがありますが、まさにパイロットの手の感触が操縦に伝わっているような、不思議な感覚を覚えたものでした。
先人の偉業とそれを引き継ぐ現代の人たちの努力に思いを馳せるとき、YS-11はやはり名機だと思うのです。
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