これまでに二次大戦中に沈没した武蔵や比叡などの旧帝国海軍の艦船を数々発見してきた故ポールアレン氏の探査チームですが、新たに重巡洋艦摩耶を発見したとの発表がありました。

フィリピン西部パラワン島沖の海底1850mで発見された摩耶は、転覆せずに沈没したために主砲などがそのままの状態で船体を海底に横たえ、静かな時を過ごしてきたようです。

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色鮮やかな測距儀は砲弾の種類や仰角によって到達点を示す計算尺の役割を持っており、当時の技術者の息づかいまでが伝わってくるようです。

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重巡洋艦摩耶は、高雄型重巡洋艦の四番艦として神戸の川崎造船所で建造され、1932年に就航しました。

南方作戦やソロモン海海戦に参加したのち、1944年10月、愛宕、高雄、摩耶、鳥海からなる第四戦隊とマリアナ沖海戦に参加しましたが、10月23日朝、パラワン水道にて米国潜水艦デースの放った4発の魚雷が左舷に命中し、じつに8分という短い時間で沈没し、336名が亡くなりました。

駆逐艦秋霜に救助された生存者は、その後武蔵に移乗しましたが、その武蔵も空襲により10月24日に航行不能、沈没となります。
武蔵移乗後に戦死した摩耶の乗組員もいましたが、それでも摩耶の生存者は武蔵の艦上で自発的に戦闘配置につき、総員退去の発令後も艦を去らず救助や復旧作業を続けた方もいると言います。


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当時としては大きく特徴的な艦橋構造をした摩耶ですが、まるで現代のフェーズドアレイレーダーを搭載する巡洋艦然とした風格を持っています。




現在、海上自衛隊には、まや型護衛艦1番艦、まやが就航しています。


その名は神戸の六甲山地中央の摩耶山に由来しますが、摩耶山はかつて
紀伊・河内・和泉・摂津・播磨・淡路・丹波・讃岐の八か国すべてを見渡す八州嶺とも呼ばれていました。

まやという艦名には、平和の維持のため、周り全てを見渡し、隙の無い警戒を行うという気概が込められています。