太平洋戦争で沈没した日本海軍の戦艦比叡がソロモン諸島沖の深さ985mの海底で発見されました。
発見したのは、マイクロソフトの共同創業者でもあったポール・アレン氏(2018年10月没)の探査チームです。
このチームは、2015年にフィリピン沖の深海1000mで戦艦武蔵を発見したことでも知られています。


戦艦比叡は海底でひっくり返った状態で発見され、巨大なスクリューや高射砲などの残骸が確認できるものの、船体の3分の1ほどは失われた状態になっており、沈没、もしくは沈降時に大きな爆発によって船体が断裂して着底したものと考えられています。

キャプチャ



戦艦比叡は、イギリスに発注された金剛型戦艦の二番艦として横須賀で建造され、1914年に竣工しました。
当時は巡洋戦艦として就航しましたが、数々の改装をへて最終的に1936年の大改装により当時の戦艦としては画期的な30ktの速力を有する高速戦艦として最終形態を迎えます。
また、天皇陛下をお迎えする御召艦としての晴れやかな役割を果たした時代もあり、当時の海軍を象徴する存在として記念切手のモチーフになったこともあります。

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南雲機動部隊の護衛として真珠湾攻撃に参加し、太平洋戦争海戦当初から走り続けてきた高速戦艦は、1942年11月13日に最後の時を迎えます。

1942年11月、ガダルカナル島を攻略すべく陸軍第38師団の上陸作戦を援護するために、戦艦比叡、霧島を擁する第11戦隊をはじめとする海軍戦隊はトラック泊地からソロモン諸島へ向かいました。
そして迎えた11月12日、第3次ソロモン海戦が勃発したのです。

闇夜にあって南方特有のスコールにも行く手を遮られ、敵味方入り乱れての大混戦のなか、戦艦比叡は自らが敵の標的となるリスクをものともせず探照灯(サーチライト)で敵艦を照らし続け、味方の戦果に貢献し大奮戦しましたが、艦橋に50発以上の命中弾を受けた比叡は大きな損害を受け、また艦尾喫水線付近に徹甲弾が貫通し、舵も損傷してしまいました。
この夜戦はお互いに機銃の射程範囲で交戦したと伝えられ、いかに至近距離での乱戦であったかがうかがい知れます。

主機や主砲が健在であった比叡は、夜が明けてから浸水を止める応急処置が施されたものの、操舵不能なうえ波状的に訪れる空襲によりついに戦闘不能に陥ります。
陸軍上陸部隊の掩護という任務が残されている以上、敵襲をいくらか吸収するだけでも存在価値があるのでは、との主張もありましたが、ついに連合艦隊司令部は比叡の処分を決定します。
しかし、総員退艦したのちに僚艦が比叡のいる海域に戻ると、すでに比叡の姿は海上になかったとされています。

これが、太平洋戦争で日本海軍にとって初めての戦艦の沈没でした。

比叡の沈没の状況には諸説あり、駆逐艦雪風の雷撃によって沈没したとする説や、キングストン弁を開放して自沈したという説があり、その最期は謎とされています。
連合艦隊司令部では比叡の処分について対立があったとも言われており、真実を知る人ももはやごくわずかです。


今回の発見がその最期の謎をひも解く鍵になるのか注目されるところではありますが、まずはその発見に対して合掌しておこうと思います。

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