ついでにやっておきましょう。
羽田空港の歴史についてです。
様々な紆余曲折を経て建設された成田や関西空港と比較して、羽田空港は由緒正しい家柄に生まれた、非常に育ちのよろしい空港と言えます。
日本のライト兄弟と言われる玉井兄弟、その兄清太郎が東京府羽田の穴守に日本飛行学校を設立したのは大正5年のことでした。
それから1年後、自作の飛行機に新聞記者を同乗させて公開飛行に臨んだ清太郎でしたが、悲しいことに着陸間際に主翼の破損により墜落、記者とともに帰らぬ人になってしまいました。
これによってわずか1年の活動を事実上休止してしまった日本飛行学校ですが、それでも羽田の地に日本の民間航空史の礎を築いたことに間違いありません。
なお、このわずか1年の活動期間に、飛行学校の学生として、あのウルトラマンの生みの親、円谷英二が在籍していました。
それからしばらくたった昭和6年の夏、正式に羽田に通信省による民間専用飛行場として、東京飛行場が開設されました。
当時の滑走路は、300mx15mの1本のみでした。
8月25日に飛び立った初便は大連行き、6人乗りのフォッカーでしたが、乗客は無く積み荷は6000匹の松虫や鈴虫だったそうです。
大連までどのくらい時間がかかったのかわかりませんが、さぞかし賑やかな機内だったことでしょう。

その後、中国向けの旅客や物資輸送の拠点として発展した東京飛行場は、昭和14年には800mの滑走路を東西、南北に敷設し(現在のA滑走路、B滑走路の原型)、2階建てながらおしゃれな円筒形ガラス張りのターミナルビルも建設されました。
民間用空港であったため戦時中も多くの部隊は配属されず、軍事拠点としての重要性が少なかったため空襲の被害からも免れた東京飛行場は静かに終戦を迎えました。
そして、終戦後進駐してきたGHQに接収されることとなった東京飛行場は、HANEDA ARMY AIR BASEとして米軍管理下の6年間を過ごすことになります。
GHQによる接収は電光石火で、当時空港島にたくさんの住民が住んでいましたが、48時間以内の退去を命じられたそうです。
GHQによって内部の整備や埋め立ての拡張も行われていましたが、穴守神社の大鳥居がどうしても撤去できなかったという逸話をご存知の方もたくさんいらっしゃるでしょう。
昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約が締結された翌年7月にはついに空港は日本に返還され、運輸省により東京国際空港として生まれ変わりました。
折しも航空輸送の発展とジェット時代への変遷に向かいつつあった民間航空業界の波に乗り、東京国際空港は急激な発展を遂げ、昭和30年には新ターミナルビルが建設され、A滑走路も2550mに延伸されました。
そして、昭和39年の東京オリンピック開催にも後押しされ、さらに昭和45年にはジャンボジェットが就航するようになり、エプロンの拡張や滑走路補強により、大型ジェット機の就航とうなぎのぼりの航空輸送に対する需要に応えるべく、投資が拡大していきました。
しかし、航空需要の伸びは当時の政府の予想をはるかに上回り、東京国際空港に代わる新空港の建設が急務となりました。
そこで計画されたのが成田空港の建設です。
そして、昭和53年に新東京国際空港、成田空港が開港してからは、国内空港としての時代を過ごすことになります。
それでも羽田空港への需要の高まりと開発はとどまるところを知らず、発展を続けていきます。
昭和58年からは東京国際空港整備基本計画が推進され、新A滑走路の延伸、新C滑走路の敷設、B滑走路の沖側への移動などにより離発着回数の向上や騒音対策がとられ、それでも賄いきれない需要のためD滑走路が平成22年より運用開始され、おおむね現在の形に至ります。
今では首都圏からの利便もあり、物流業者にとってもかけがえのない羽田空港。
民間航空のために生まれ、民間空港として育ち、不遇の時代を過ごしても、いまなお発展を続けるまさに日本の玄関口としてふさわしい空港なのでした。

羽田空港の歴史についてです。
様々な紆余曲折を経て建設された成田や関西空港と比較して、羽田空港は由緒正しい家柄に生まれた、非常に育ちのよろしい空港と言えます。
日本のライト兄弟と言われる玉井兄弟、その兄清太郎が東京府羽田の穴守に日本飛行学校を設立したのは大正5年のことでした。
それから1年後、自作の飛行機に新聞記者を同乗させて公開飛行に臨んだ清太郎でしたが、悲しいことに着陸間際に主翼の破損により墜落、記者とともに帰らぬ人になってしまいました。
これによってわずか1年の活動を事実上休止してしまった日本飛行学校ですが、それでも羽田の地に日本の民間航空史の礎を築いたことに間違いありません。
なお、このわずか1年の活動期間に、飛行学校の学生として、あのウルトラマンの生みの親、円谷英二が在籍していました。
それからしばらくたった昭和6年の夏、正式に羽田に通信省による民間専用飛行場として、東京飛行場が開設されました。
当時の滑走路は、300mx15mの1本のみでした。
8月25日に飛び立った初便は大連行き、6人乗りのフォッカーでしたが、乗客は無く積み荷は6000匹の松虫や鈴虫だったそうです。
大連までどのくらい時間がかかったのかわかりませんが、さぞかし賑やかな機内だったことでしょう。

その後、中国向けの旅客や物資輸送の拠点として発展した東京飛行場は、昭和14年には800mの滑走路を東西、南北に敷設し(現在のA滑走路、B滑走路の原型)、2階建てながらおしゃれな円筒形ガラス張りのターミナルビルも建設されました。
民間用空港であったため戦時中も多くの部隊は配属されず、軍事拠点としての重要性が少なかったため空襲の被害からも免れた東京飛行場は静かに終戦を迎えました。
そして、終戦後進駐してきたGHQに接収されることとなった東京飛行場は、HANEDA ARMY AIR BASEとして米軍管理下の6年間を過ごすことになります。
GHQによる接収は電光石火で、当時空港島にたくさんの住民が住んでいましたが、48時間以内の退去を命じられたそうです。
GHQによって内部の整備や埋め立ての拡張も行われていましたが、穴守神社の大鳥居がどうしても撤去できなかったという逸話をご存知の方もたくさんいらっしゃるでしょう。
昭和26年9月、サンフランシスコ講和条約が締結された翌年7月にはついに空港は日本に返還され、運輸省により東京国際空港として生まれ変わりました。
折しも航空輸送の発展とジェット時代への変遷に向かいつつあった民間航空業界の波に乗り、東京国際空港は急激な発展を遂げ、昭和30年には新ターミナルビルが建設され、A滑走路も2550mに延伸されました。
そして、昭和39年の東京オリンピック開催にも後押しされ、さらに昭和45年にはジャンボジェットが就航するようになり、エプロンの拡張や滑走路補強により、大型ジェット機の就航とうなぎのぼりの航空輸送に対する需要に応えるべく、投資が拡大していきました。
しかし、航空需要の伸びは当時の政府の予想をはるかに上回り、東京国際空港に代わる新空港の建設が急務となりました。
そこで計画されたのが成田空港の建設です。
そして、昭和53年に新東京国際空港、成田空港が開港してからは、国内空港としての時代を過ごすことになります。
それでも羽田空港への需要の高まりと開発はとどまるところを知らず、発展を続けていきます。
昭和58年からは東京国際空港整備基本計画が推進され、新A滑走路の延伸、新C滑走路の敷設、B滑走路の沖側への移動などにより離発着回数の向上や騒音対策がとられ、それでも賄いきれない需要のためD滑走路が平成22年より運用開始され、おおむね現在の形に至ります。
今では首都圏からの利便もあり、物流業者にとってもかけがえのない羽田空港。
民間航空のために生まれ、民間空港として育ち、不遇の時代を過ごしても、いまなお発展を続けるまさに日本の玄関口としてふさわしい空港なのでした。

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