国際線旅客乗降数と航空貨物取扱量第一位を誇る成田空港。


今年開港40周年を迎えた成田空港ですが、その道のりは決して楽なものではありませんでした。
イデオロギーの対立と革命を求めるエネルギーが溢れる時代に立案されたこの空港の歴史は、反対運動なしに語ることはできません。


1960年代はじめごろ、当時運用されていた羽田空港の能力がその需要増加をカバーできなくなると予想した政府は、新たな空港の候補地を検討していました。
そして、浦安、木更津、霞ヶ浦、冨里、三里塚などが候補として検討されることとなりました。

当時の三里塚は明治政府によって設置された御料牧場があったりもしましたが、地形的に分水嶺にあたるため保水の良くない土地は耕作にも向いておらず、当時の住民の生活は苦しかったと言います。

しかし、1966年に三里塚が建設候補地として閣議決定されてからは、住民への説明が不十分なままに(とされています)収用などが進められようとしたことから、周辺住民を中心に猛烈な反対運動が巻き起こります。

日米安保闘争の人員とエネルギーがそのままに投入された成田空港反対運動は、凄惨な事件を巻き起こす凄まじい運動となりました。

細かいことは触れませんが、

東峰十字路事件
東山事件
管制塔占拠事件

などが悲しい記録として残されています。

また、いまでも不自然に存在する東峰神社周辺に警察官の姿が絶えることはなく、つい最近まで空港構内に入るためには検問を通過しなければなりませんでした。


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航空機の運航や乗客、貨物の安全を確保するために、いまなおテロとも呼べる、市民の安全を脅かす行動に備えが必要な状況は続いているわけです。


とはいえ、反対運動が始まってすでに50年。
その活動は歴史になりつつあります。

我々物流マンにとって航空機の安全運航は何より大切なこと。
たくさんの人々の安全への努力によってお客様の貨物を無事に届けることが出来ています。

しかし、時には過去を振り返って、その土地でかつて何が起こったのかを知ることも必要なことかもしれません。


芝山の航空科学博物館の駐車場をさらに奥に進むと、ちいさな平屋建ての記念館があります。

成田空港 空と大地の歴史館

そこには、成田空港の歴史と当時のエネルギーの痕跡がたいせつにおさめられています。