2020_02


1960年代なかば、航空輸送の需要が高まり、航空機の大型化とジェット化がすすむなか、関西の航空輸送拠点である伊丹空港の機能は限界に近づいていました。
市街地に位置する伊丹空港はこれ以上の拡張性も乏しく、また事故に対するリスクも高まり、次世代の需要にこたえるための新たな拠点の必要性が議論されることとなりました。

1968年に運輸省による調査が開始され、明石やポートアイランド沖、岸和田沖やさらには淡路島まで空港立地の候補地として議論されましたが、最終的に泉州沖が最適との決定がなされました。


これが関西空港のはじまりです。


1984年10月、関西空港会社が設立され、建設が着手されました。

当時としては世界的にも例のない海上空港。
何もない海の上にまったく新しい埋め立て地を造成し、連絡橋で行き来するという構想は非常に壮大なものでしたが、工事は難航を極めました。
工期の長期化と漁師への莫大な漁業補償も重なり、工費はトータルで1兆円を超えるともいいます。

沈みゆく緩い地盤とも戦いながら、空港島の埋め立て工事が完了したのは実に着工から7年後、1991年のことでした。
そして、滑走路などの基本施設やターミナルビル、空港連絡橋の完成を経て、1994年9月4日、関西国際空港は開港します。

立案から実に30年もの時間をかけたことになります。


開業当初、設定された着陸料は非常に高額で、当時極東アジアのハブ空港となりつつあった韓国の仁川国際空港や中国の上海浦東国際空港に比べても競争力があるとは言えない状況で、利用者数は思ったように伸びませんでした。

そこで、段階的な着陸料の減額やLCCの積極的な誘致、二期島の完成と24時間空港としての運用開始、貨物地区の整備などの努力を重ねた結果、利用者数と発着便数が徐々に伸び始め、アジアをはじめとするインバウンド需要を支える主要空港として実績を伸ばしていきました。

二期島にはFedexの北太平洋ハブも設置され、医薬品専用倉庫などユニークな施設も設けられ、旅客だけでなく国際貨物の主要な拠点として機能を整えていきました。


沈下する地盤や困難な労働力の確保、家賃の高さ、様々な問題点に対する議論は尽きませんが、我々にとっては大切な仲間たちが働き、大切なお客様の貨物を取り扱う重要拠点です。


今年9月、高潮による甚大な被害を受けた関西空港でしたが、現場の皆さんの努力により徐々にその機能を回復しつつあります。

今回のことで関西空港がどれほど日本の物流を支えていたか、色々な意味でほんとうに身に沁みましたが、旅客サービスの復旧ばかりが取り沙汰され、貨物地区にあまり焦点が当てられなかったのは残念なことです。
しかし、自分の知る仲間や同業者、お世話になっている業者さん達に人的被害がなかったのはなによりのこと。

人が残れば元に戻るということを実感し、感謝しているところです。


おそらく関空はそろそろ吹きすさぶ風で寒いのでしょうね。
今日は立冬、年末も近づいてきています。
秋の疲れを持ち越さず、良い年を迎える準備といきましょう。


※空港島の周辺は府の条例により釣りが禁止され、さらに漁業資源回復のため様々な施策がとられているため、ムチャクチャ魚が釣れるという都市伝説があります。
本当なんでしょうか。
興味ありますが、確かめると捕まっちゃいますね。