都内の湾岸エリアには、史跡として明治時代の帆船が鎮座している場所が2か所あります。

東京海洋大学越中島キャンパス(旧・東京商船大学)の明治丸と、品川キャンパス(旧・東京水産大学)の雲鷹丸です。


明治丸の竣工は明治7年、イギリスの造船所で建造されました。

建造当初の目的は灯台巡視船でしたが、当時は最新鋭の船型であり国内最速の船であったため様々な任務を行い、また御召し船として明治天皇が何度も乗船され、歴史に名を残す船となりました。


小笠原諸島の領有権が問題となった明治8年、日本政府の調査団を乗せてイギリスより早く現地に到着した明治丸は、小笠原諸島の日本領有化に大きく貢献しています。

日本の排他的経済水域の面積は世界第6位の447万平方キロですが、小笠原村に属する水域は何とその四分の一を占めます。

当時の欧米によるアジア侵略から日本の領海を守った功績は非常に大きいと言えます。


また、現代の国民の休日、7月20日の海の日は、明治天皇が明治9年に北海道から乗船され、無事に横浜に到着したとされる明治9年7月20日に由来しています。

昭和29年に除籍されたのちも当時の東京商船大学の学生の訓練の場として活躍し、昭和53年には船としては初めて国の重要文化財に指定されました。

明治丸は現存する唯一の鉄船でもあります。


雲鷹丸は明治42年に竣工し、捕鯨や水産加工の実験、実習船として活躍しました。

特に、水揚げされた蟹を洋上で缶詰に加工するという蟹工船の先駆けとして、のちの日本軍の食料をまかなう水産加工の礎を築いています。

プロレタリア文学の代表格として知られる小林多喜二の蟹工船のルーツでもあると言えますが、当時の日本人に水産物を安定供給する実証を行ったことは疑いありません。

雲鷹丸は昭和3年に引退し、水産大学で訓練船として活躍したのち、昭和37年に現在の場所に移設され、平成10年、登録有形文化財に指定されています。


今は一般公開されていませんが、どちらの船も都内の大きな通りから通りすがりに全容を眺めることが出来ます。

歴史に名を残す堂々とした姿は非常に晴れやかで勇壮なものです。


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東京海洋大学のホームページより