以前、航空輸送史において重要な位置を占めるDC-3について少しだけ触れました。
今日はこのDC-3について、もう少し深堀りを進めてみようと思います。


dc3


1930年代、北米の大陸横断航路で使用されていた主力の機体は、ダグラスエアクラフト社のDC-2でした。
DC-2は、当時としては多数と言える14人の旅客定員で、全金属性のセミモノコックの機体を持ち、引き込み脚や可変ピッチのプロペラを持つ優秀な性能を持つ先進的な航空機でした。
しかし、航空輸送網の発展と飛行距離の延長により寝台旅客機の需要が高まったときに、DC-2は機体幅がやや狭く、寝台を設置するには十分なサイズとは言えませんでした。

そこでアメリカン航空はダグラス社に寝台を設置することのできる十分なサイズの旅客機の開発を依頼し、1935年12月に試作機の初飛行が行われました。


これがDC-3の前身となる、DST(Douglas Sleeper Transport)です。


このDSTはDC-2を基にして約半年というかなりの短期間で設計されましたが、非常に優れた基礎設計がなされており、1936年にはアメリカン航空の主要航路に採用されました。


そして、DSTの性能と経済性に自信を持ったダグラス社はすぐさまベッドの代わりに通常の座席を配置した機体を開発し売り出したところ、あっという間にアメリカのみならずヨーロッパの航空会社に正式採用され、ベストセラーとなりました。


DC-3はこうして誕生したのです。


DC-3は高い操縦性や安定した飛行特性にくわえ、整備性が高かっただけではなく、DC-2の1.5倍である旅客定員21名に対して運航コストは約3%程度しか高くなかったといわれ、航空輸送の商業性の高さを裏付けることになる非常に重要な機体となりました。
当時の旅客機は運賃収入だけでは運行経費が賄えず、政府からの補助金で運航するのが常識だったのですが、DC-3は世界で初めて運賃のみで運航することができた初の機体となりました。


DC-3はその後6年ほど旅客機として生産され、アメリカの旅客機市場で重要な位置を占めるようになりましたが、真価を発揮するのは第二次大戦のことでした。


DC-3の優秀な性能は軍の輸送機としても絶大な信頼性を誇り、アメリカ陸軍により軍用輸送機として採用されたDC-3は、旅客機としての生産を1943年に終了し、C-47と名を変えた輸送機バージョンのこの機体は、1945年までに約10000機が製造されました。

日本でも、1937年に三井物産がダグラス社からライセンスを取得し、昭和飛行機工業により生産が始まりました。
その後、完全国産化を実現したDC-3は日本海軍により1940年に零式輸送機として正式採用され、終戦までに486機が生産されました。


また、二次大戦中には連合国であったソ連もC-47約700機を供与され、ライセンス生産を開始するに至り、またイギリスではDakota(ダコタ)として運用されました。


優秀な軍用輸送機として生まれ変わったDC-3は二次大戦終了後かなりの機体数が生き残り、輸送機や旅客機として民間に転用され、航空旅客史、航空貨物史のなかで外すことのできない重要な機体そして大きな実績を上げました。


そして戦後の日本でも日本ヘリコプター航空(日本航空 = NH の前身)をはじめ、昭和30年ごろから多くの民間航空会社に採用され、国内路線で多く運用されました。



やがて1960年代ごろから新型機に正式採用機の立場を徐々に奪われていったDC-3ですが、いまでも世界の片隅では現役で飛び続けているという話です。



ベッドを設置する旅客機として開発され、軍用輸送機として爆発的に生産され、再度民間機として航空輸送の発展に大きく貢献したDC-3は、今後においても比類なき活躍をした稀有な存在として永遠に語り継がれる航空機に間違いありません。


カナダのBuffalo AIRWAYSのホームページに、2006年に現役だったDC-3の写真が掲載されています。


DOUGLAS DC-3


DC-3を紹介した英文のやや長文の記事ですが、お時間のある方はぜひご一読ください。
いつ初飛行をした機体なのかはわかりませんが、最後に筆者のDC-3に対する愛に満ちた言葉で文章が締めくくられています。

The Douglas DC-3 will never stop flying.