1914年に完成したパナマ運河に対して、スエズ運河の歴史は1869年にまでさかのぼります。
しかし、太平洋のフロンティアとして人々に熱望されて開発されたパナマ運河に比べ、スエズ運河の系譜は、時代ごとの列強諸国の利権争いに翻弄された、決して穏やかとは言えないものでした。



かつて外交官としてエジプトに赴任していたフランス人実業家のレセップスは、当時のエジプト総督のサイードにスエズ地峡の運河開発を進言し、国際スエズ運河会社を設立、1859年に運河建設に着工しました。

建設初期の主な労働力は、エジプト農民による無償労働で賄われたとされています。
常時3万人が労役についていたとも言われ、また労働環境は劣悪で、工事期間中の死者は数万人とも言われています。


もともとスエズ運河の実現性と経済性に懐疑的だったイギリスは、運河建設における労働者の扱いが奴隷的であると非難し、また強大な海軍力を背景に武装勢力を工事現場に送り込んで労働者を扇動し、工事の進行をあからさまに妨害したりしていました。

そして1869年11月、スエズ運河は開通し、華々しく記念式典は開かれましたが、当初、公開されたスエズ運河会社の株式は、フランス以外ではほとんど買い手がつかなかったといいます。



しかしひとたび運河が開通し、その経済効率性が確認されると、その通過船舶の8割はイギリスのものでした。
やがて、運河の開通はヨーロッパ列強のアジア進出、そしてアフリカの植民地化に拍車をかける結果を導くことになります。


1875年、エジプト政府が財政難のためスエズ運河会社の株式を売却することとなったとき、その44%を取得して筆頭株主となったのはほかならぬイギリスでした。
このことはイギリスの帝国主義化を加速させる一つのきっかけとなりました。
20世紀初頭のアフリカの地図を見ると、アフリカ東岸がら南部まで大きくイギリスが植民地支配をしていたことが分かります。

さらにイギリスは、1882年、ウラービーの反乱と呼ばれる民族独立運動を軍事制圧し、エジプトを保護国として実質的に軍事占領し、スエズ運河の権益も支配していました。
交通の要衝であるスエズ運河の独占支配はほかのヨーロッパ諸国には受け入れられぬことであり、1888年に「スエズ運河の自由航行に関する条約」を各国が批准しましたが、その後、1922年にエジプトが独立して以降もイギリスによる運河の軍事支配は継続され、なんと1956年まで74年間も続きました。


第二次大戦後、エジプトではナセルによるエジプト革命が起こりました。
これを契機に1953年、イギリスはスエズ運河から軍事力を引き上げましたが、まだスエズ運河会社の経営はイギリスによって支配されていました。
そして、ナセル大統領はアメリカ・イギリスがアスワンハイダムへの建設支援を取り下げたことをきっかけに、スエズ運河の国有化を宣言しました。

これに対してイギリスはフランス、イスラエルとともにエジプトに軍事侵攻し、エジプトもスエズ運河を沈船により閉鎖するなどして対抗しましたが、1957年、世界で初めての国連軍による介入により、第二次中東戦争と呼ばれるこの紛争は終結しました。


しかしスエズ運河と中東情勢に平和が訪れる日は遠く、スエズ運河は1967年の第三次中東戦争から1975年の8年間、閉鎖されてしまいました。
とくに第四次中東戦争でばら撒かれた機雷はスエズ運河の広い範囲に及び、その掃討作業は約半年を要したとされています。



スエズ運河の地中海側入り口には、総督サイードにちなんだポートサイド(Port Said)が建設され、いまでも東西航路の重要拠点として多くの船が寄港しています。
古代エジプトにはかつて、ナイル川から紅海に至る運河が開発され、遠くインドまでの航路が開発されていたそうです。

古代エジプト王朝の栄華を夢見てスエズ運河の開発を決意したサイードは、この世界の要衝ともいうべき運河の入り口に名を残し、何を思っているのでしょうか。
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